カナダ・北米移住史私的覚書

はじめに


 今年2012年は、鳥取県人のカナダ、北米移住が始まって120年目の年となります。その始まりは、上道村(いまの境港市上道町)で、明治の中期から大正にかけ て、この弓浜半島から多くの若者が、かの地に「夢」を描いて旅立っていきました。
 そして彼らは、サケ漁や厳寒の森林伐採労働などから始まって、ある人は足場を固め、ある人は流浪してアメリカ国境を越え、貧困と差別、祖国という壁を終えて生き 抜いてきました。
 ある人は財をなし故郷に錦を飾り、ある人は夢果たせず異国の土となりました。
 時は移り、いま3世、4世の時代となり、カナダとアメリカの日系人社会は100万人を超すと推計され、各地にジャパンタウンが形成されています。
 いまなら行き先がどんなところ?情報にあふれる世の中ですが、なにもなかったあの時代に、海外へ雄飛して行った若者たちの存在を知って感慨に耐えませんでした。 いま、「内向き」と言われ、海外留学生も減少する日本社会にあって、こんな人たちがいたんだということだけでも継承していきたい、改めて先人の偉業に光をあてたい と思ったものです。
 120周年を2年後に控えた2010年12月市議会で、私は記念事業の開催を提案しました。市長、教育長ともに賛同され、準備が進められてきました。今年に入っ て第一回実行委員会が開催、事業の概要が決められ、今日3月15日、カナダやアメリカに活動する鳥取県人会あてに正式な招請状がだされました。私には少し、行政の 具体化が遅すぎるという気がしないではありませんが、成功に向かって力を尽くしたいと思います。
 このテキストは、私自身が鳥取県におけるカナダ・北米移住の全容をつかむために、すでに公刊された文書などから整理し書き溜めてきた私自身のための覚書ですが、 この事業を通じて新しく関心を持たれた方の理解の入り口になればと思い公開することにしました。
 海外移住には、後に国策で行われるブラジル移民や満州への移住などもありますが、ここでは鳥取県の、とくにその大半を占めた弓浜地方(いまの米子市の一部、境港 市)からの、カナダ、アメリカなど北米への移住を中心とします。
 まだ、未完成の部分もたくさんです。また、今後の加筆や訂正、全体の構成の変更もあるかもしれません。煩雑を避けるため、とくに断るべき出典は引用文の後に記載 します。 ------------- 2012年3月15日


サンノゼ資料館にて
管理者の方々と----2010/10/28


 娘がアメリカに留学し3年目を迎えた2010年2月、私たち夫婦でサンフランシスコを訪ね、そこで娘の友人にたいへんお世話になりました。どの方も、アメリカに 人生の希望を託して働きに来ている若い人たちでした。ジャパンタウンで多くの日系の人々に出会うことになりました。
 私の長姉も戦後、進駐軍の米兵と結婚し渡米、いまオハイオ州シンシナティで多くの子どもや孫に囲まれて幸せな日々を過ごしていますが、小さい頃、大篠津村(いま の米子市大篠津町)に育った私の周りでも、「あのうちはアメリカ帰りよ」とかいわれる家があったし、弓浜から多くの移住者があったことは、一般的知識として知って いました。
 私の中で、次第に日系アメリカ人への関心が深まりました。決定的だったのは、鳥取県の海外移住の草分けが足立儀代松という上道村、いまの境港市上道町の出身だと いうことを知ったことで、「そんなことも知らなかったの」と、笑われるかも知れませんが、「こんな人物がこの境港の歴史のなかにいた」のは新鮮な驚きだったのです。 夏のころでした。
 10月、ふたたびサンフランシスコに行くことになってから、市の市史編さん室、県立図書館、あちこちの公民館など資料漁りの日が続きました。ともかく移住の概要、 アウトラインを知ることからでした。
 そのことを知った娘が、県人会の方たちと出会う機会を準備してくれました。私のなかではまだ個人的関心でしかなく、「話が聞かれれば幸せ」ぐらいだったのですが、 サンノゼ市に日系人団体が運営する資料館を訪ね、サンフランシスコ市立図書館で本を読み、集まってくださった方たちの話を聞くなかで、頭の中でこれからしなければ ならないことが、絵になってきたのです。
先覚者たちの話。あの時代に海外へ雄飛した浜の人々の、この気概と勇気、その後の苦闘の光と影に、もっと光をあてなければならない。
足立儀代松が最初に渡航したのは明治25年、1892年。これを鳥取県における海外移住元年とすれば、再来年2012年が120周年と なる。
日系人社会もいま、3世、4世の時代。送り出した浜の側にしても次第に縁は遠のく。門脇文吾先生を始め、研究者たちの物故も相つぐ。も ともと数少ない一次資料、1世たちの生の声を伝える手紙や日記、写真など散逸の危険はないか。
望郷の念、ルーツを知りたい欲求は根強い。120年を期に交流事業ができれば、うれしい・・・・。



第1章 弓ガ浜・海外移住の始まり

 

1) 移住の概要


 日本における海外移住の歴史は、慶応2年(1866)4月7日、江戸幕府が海外渡航禁止令を廃止し、学術研究及び貿易のための海外渡航を許したことにはじまる (『近代日本総合年表』)が、鳥取県におけるその歴史は、明治中期に始まる。


明治25年、足立儀代松


 県人で最初に渡米した人として知られているのは、明治23年の入江金次(現鳥取市面影町出身)と山田政蔵(現鳥取市用瀬町出身)だが、これは移住を決意してのこ とではなく25年には帰国し、山田は鳥取市で英語塾を開いた。その教え子の中に上道村(現境港市上道町)出身の足立儀代松と川尻慶太郎の二人がいた。二人とも秀才 の聞こえが高かったという。

境港市上道町にある
足立儀代松夫妻の墓

 山田は、再度の渡米を決意し足立儀代松は務めていた小学校教員の職を辞し山田に同行、渡米した。明治25年(1892)秋のことだった。山田はまもなく帰国する が、足立はカナダに三年間在住し、この地にこそ「浜の芋太」の活路あるのを確信し、青年たちにカナダ・北米への移住を力説してまわった。
 足立儀代松は、明治28年に一時帰国しており、カナダ在住三年間につぶさにその実情を視察し、カナダの広大な国土と天与の資源が豊富なことを知り、将来日本人が 発展すべき地であると確信し、多くの青年に力説した。しかし、今から90年も昔のこと、鉄道も開通していない時代で、東京さえいったことのない人々に、海外のこと が想像できなかったのは無理もない。それでも、海外への雄飛を説く彼に共鳴する青年たちもいた。」
--------『境港市史』

 明治28年、明治31年の二度にわたる渡米団がカナダに渡った。
 第一次渡米団は明治28年2月23日、故郷、弓浜半島を後にし、鳥取に3泊、用瀬にて新たに5名の同行者を得て合計14名となって山を越え、3月16日、神戸か ら海路、カナダに向かって出帆した。
 第一次渡米団のうち、浜からの参加者は次のとおりである。

団長上道村足立儀代松
副団長上道村川尻慶太郎
団員上道村足立令七、遠藤宮松、門永権太郎、足立国太郎、足立伊勢松
余子村山岡 中
森岡村木下好松
三柳村中島祐和
--------『境港市史』と安達幸一『あゆみ』による

鳥取県からの移住者の多くは
神戸港からカナダ・北米をめざした
---- サンノゼ資料館

 このうち上道村出身の7人はカナダに入国し、山岡中と木下好松はアメリカ合衆国に入った。川尻慶太郎はしばらくしてから合衆国に入国している。
 第二次渡米団は明治31年。前年にいったん帰国した足立儀代松が募って境港から11名、富益村(現・米子市)から7名、現鳥取市から1名がカナダにむかって故郷 を後にしている。
 第二次渡米団のうち、浜からの参加者は次のとおりである。

上道村手島丈太郎、北野 樽松、足立六次郎、門永梅太郎、中井国太郎
余子村佐々木常松、寺本万吉朗、足立恭平、寺沢義晴
中浜村岡田英次、安田石松
富益村手島遷六、佐々木久馬之丞、門脇嘉三郎、木村清六、木村甚太郎、松本才五郎、手島菊松
--------『境港市史』と安達幸一『あゆみ』による

 その後、毎年のように渡航者が続く。明治33年(1900)には、境港市から50名以上の大挙移住があった。この年に初めて以下3名の女性が渡米している。

足立てる、足立せい、足立ヨネ

 家族の呼び寄せなども含めて、女性の移住者も増え、移住地も次第に家族もちが多くなった。


県内移住者の状況


 安達幸一著『あゆみ』には、1909年頃までに入国した弓浜地方出身の南カルフォニア在住者リストがある。そこに記されている人数は 168名にのぼる、
 旧町村別に整理すれば、下表-1のとおりとなる。また、カナダ在留者に限るが、大正期の鳥取県人の数について、『鳥取県中南米移住史』(鳥取 県)は、中山迅志郎著「加奈陀同胞発展大鑑」から次のような数字を紹介している。

弓浜地方出身の南カルフォニア在住者
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 佐賀省三著『上道村雑記』は、アメリカに渡った同村出身者282名の名前を列記している。
 いずれもあるときの、ある区域のデータであって、全体のなかの一部でしかないが、鳥取県関係のカナダ、北米への移住は相当な数であり、当時の一大ムーブメントだ ったといってよいだろう。

大正期の鳥取県人カナダ在留者数
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 「昭和52年発刊の南加鳥取クラブ(米国カルフォルニア州南部の鳥取県人会)の『会員住所録』によれば、会員の80%以上が弓浜出身であり、その半数以上が境港 市の出身である。会員は、大体一世帯一人であるため、その家族などを含めると相当の人数にのぼると考えられる」
--------『境港市史)

 鳥取県における海外移住の歴史は、このように明治25年(1982)の足立儀代松をもって始まるとみなすことができる。
 なお、この期の移住記録の詳細は、門永文吾著『CANADA渡航記―郷土鳥取県人のあゆみ』が最適。移住後の暮らしについても。
 門永文吾先生については、第4章研究者たちでご紹介したい。


2) 彼らを動かしたもの--移住の背景


 なぜ、弓浜部から海外移住が多かったのだろうか。
 この時期の日本人移民について、さまざまな研究があるが、飯野正子は次のような社会的背景を指摘している。

 「とくにアメリカへの移民が増加した1880年代の日本の社会的背景は、ほぼ次のようなものである。西南の役のあとの不景気、米価の暴落、地租の重税、さらには 凶作も加わり、農村は深刻な不況に見舞われていた。農民は土地を手放し、小作農へと転落し、ついには離農離村を余儀なくされていた。しかし、都市産業にはまだ十分 に発達しておらず、農村から流出する労働力のすべてを吸収する余裕はなかった。余剰労働力の一部が、北海道または海外移住にまわったことは容易に想像できる」。
--------飯野正子著『もう一つの日米関係史』・一部要約

 浜の農民にとっても事情はもっと差し迫ったものであったようである。
『あゆみ』によれば、米川の開削による農産物の飛躍的な増産は、浜に米子南部をしのぐ人口の集中する地となっていた。一方では延宝年間 から始まり隆盛を誇った綿作が明治に入ってからの紡績資本育成のための外綿輸入関税廃止で打撃を受け、養蚕業と桑畑へと転換を果たすが、これまた日米関係の悪化で 生糸輸出の不振という打撃に見舞われてきた。

【貧困からの脱出】
 次男、三男はどこに生きる道を求めるか、きわめて切実なものがあったといってよいだろう。
 前出の飯野正子は次のように書いている。

 「人々に移民を決心させた重要な要因は、日本におけるよりも高い賃金であった。移民した先での職種により、また移民の運不運によっても異なるが、契約労働者の場 合、日本での賃金のほぼ4倍から5倍であったといわれる。・・・伝えられる成功した移民の話や移民を募集する移民会社の宣伝文句は、日本での生活から逃げ出して経 済状況を改善したいと願う移民希望者にはきわめて魅力的であったと思われる。」
 --------『もう一つの日米関係史』

 多くの者は、最初から永住の決意で海を渡ったのではなかった。「一攫千金」を夢み、「3年たったら帰って来る」つもりだったのである。

【進取の気風・精神的風土】
 加えて、研究者たちによれば弓浜地方特有の要因も挙げられる。その一つは、浜ならではの精神的風土だという。

 「以上弓浜地方の開拓と農業の移り変りを観たが、これは他地方の水田耕作を主とする人々とは違った生き方をして来たことを示している。ことに農産物の作付転換の 機敏さに注目しなければならない。そこに弓浜人の伝統的な開拓精神と、さらに環境に速やかに適応してゆく機動性とでもいい得る精神的風土を形づくている。
 このような風土に育った人々が、一度海外渡航に目を向ける時、独自な推移を見せたのも、当然であったと思われる。」
 --------安達幸一 『あゆみ』

 前述の飯野正子は、次のような指摘もしているが、早くから貿易港として開け、新知識に触れやすかった境港に、浜の海外移住が始まったことを思えば、的をえた指摘 というべきではないだろうか。

 「海外への移民を多数送り出した地域は、往々にして海に接した地域で海外志向性が高かったといわれるが、この点も移民一般に共通している。」 (『もう一つの日米関係史』)

【村上学校】
 なぜ、弓浜で多かったか、そのもうひとつ重要な答えが村上学校の存在である。明治21年、上道村に開校された弓浜高等小学校(校長・村上龍)の教育のことである。 希望するものだけが入学する4年制学校で、英語科もあり、そこには鳥取県人ではじめて渡米した二人のうちの一人で、アメリカ事情に通じた山田政蔵の教え子の川尻慶 太郎も明治27年に赴任していた。
 一時帰国した足立儀代松も出入りし、海外への夢を語り合う場となった。

 「弓浜校の卒業生で、海外に雄飛し、アメリカ大陸に渡航した者は多く、かの地での開拓の中心的存在であった。これらの人は、弓浜校卒業を誇りにしている。
 当時の弓浜校教師は、卒業生に渡米を強く勧めており、『海外移住は弓浜校の宿直室から』始まったとさえ言われている。教師の言葉に、『長男は日本左衛門として日 本にとどまり、次男以下は世界左衛門として海外へ雄飛せよ』というのがある。当時の教師の心意気を感ずる。」
 --------『境港市史』

 明治28年の第一次渡米団の送別会も、その宿直室で行われた。
 鳥取県における海外移住の歴史は、このように明治25年(1982)の足立儀代松をもって始まるとみなすことができる。足立儀代松と村上龍の二人は、平成23年 (2011年)、「境港市の誇る先人たち」に列せられました。
 




第2章 かの地の暮らしは

 初期の移住者たちの生活はどのようなものであっただろうか。
漁業・農場労働、コミュニティ、宗教、教育、故郷への送金――――― などに分けてまとめていきたいと思っているが、時間がかかる。ここでは、カナダ渡航者の当時 の様子がよくわかる門永文吾編『CANADA渡航記』と、南カルフォルニア側の様子がわかる『和田移民の歴史』(???) の一部を紹介しておきたい。

1) カナダ編

多くは鮭漁や林業に就業
 1800年代は,すべて漁業(鮭漁)が本業であり,共同経済というか収益も平等な分配法が行われていた。そして,県人は,大体同じ場所に住んでいた。鮭の出漁期は6月 から10月までで,出漁日数は,一年を通じて55日と決められており,この期間は,週2日か3日の出漁であった。その外の季節は,他の仕事につく人が多かった。
 冬期には,一部の者はユニオン炭鉱(バンクーバー島)に就倒することが,2年か3年続いた。遠藤宮松と門永権太郎の先導で,数名が働いていたが,1898年(明治31年) に,炭鉱の爆発事故が起ったので,引揚げとなり,帰途にコモツタス(バンクーバー島Comox)において,開墾事業を請負って働いた。
 他の一部は,石河鹿蔵,足立令七らが先導で,バンクーバーのグランビル橋下の製材所テツ・ミルに就働した。毎年継続して,後には多数の人が働き,バンクーバーが ブーム・タウンとなり,製材業が発展するにつれて遂に専業とする者もあった。そして,バンクーバー第二街方面に居住する根底をつくった。石河鹿蔵は早逝したが,そ の後,同製材所がラット・ポテージ製材所となってからも,多くの県人が絶えず就働し.後年,松下勘太郎が不幸にも一命を失ったのも.この製材所である。
 1899年(明治32年),門永権太郎がボスとなり,ノース・バンクーバーで、シングル・ボール(single bowl屋根栃原材)の伐り出し作業を開始したが,林地が違うとい うので,土人の脅迫に遭い中止し,さらに,インデイアン・リバー付近に入って経営したが,結果は周旋者の不徳のため,代金が不渡りになり,休業した。
葬儀。県人同志会
 同年6月,製材所で就業中の石河鹿蔵に不幸が起った。当時,同胞間では,合力を乞う習慣であったが,鳥取県人の中で全部の費用を支出して葬儀を営むこととなった。
 石河は水死のため,死体捜査に日数を費やして発見されなかったので,仮葬儀をした。後日,フレーザー河上流で,白人が見つけたので.さらに本葬をし,石碑も建立 した。
 これを契機にして以後,県人間における不幸時は,すべて同志の間で執り行うことを申し合わせ,遂に,1900年(明治33年)に,鳥取県人同志会の創立をみた。この組 織は,役員はなく,また規約などもなく,単に会務を世話する幹事のような係があっただけである。
 当時、飛び上りといわれた人たちもあった。旅券を持たず,渡航船の中で働き,カナダが見えると海に飛び込む。うまく上陸して日本領事館まで,たどりつけば何とか なった。しかし、第二次世界大戦後,日本に強制送還になった人も多くある。また、アメリカ大陸に行こうと,神戸港から乗船,勇躍開拓の精神にもえて出発したが,そ の船が南方行て,オーストラリアやフイリッピンに赴いたため,かの地で努力し,かの地の土となった先輩も忘れることができない。
-------- 門永文吾編『CANADA渡航記』

 以上、中見出しは定岡。『渡航記』には、この後、フレーザー河の鮭漁に働いた人々の暮らし向きが詳しく書かれている。
 南カルフォルニア側の状況は、前出『和田移民の歴史』に詳しい。以下、引用しておく。

2) 南カルフォルニア編

アメリカへのルート
 これらの人々が辿ったルートはそれ自体が苦しい試練だった。20世紀(の始め?)米子地方には鉄道がなかった。アメリカへの船が出る神戸港に行くため、少なくと も1週間かかる距離を歩かなくてはならなかった。中国山地を越え、「40曲がり?」と呼ばれる恐ろしい山道を歩かなくてはならなかった。スタミナがあり障害を克服 する力がある者は姫路に着き、ついには神戸港に着いた。1904年から12年の間には、「ハンカク丸」が境港から舞鶴まで就航していた。そこから人々は神戸行きの 電車に乗ることができ、太平洋へと乗り出していった。旅は約1ヶ月かかり多くの船はアメリカ合衆国の北西部にある港に着いた。
 北アメリカへは2つのグループが行った。アメリカに行った者と、メキシコに行ってプランテーションで契約労働者として雇われた者である。メキシコに 上陸した者 たちは、アメリカ合衆国に入るのに大変苦労した。彼らはプランテーションで雇われていたが、機会を見つけるやいなや、鉄道に沿ってテキサス州エル・パソ(国境の町) を目指して北に向かった。生活はとても大変で、彼らはたった二つの物を持って旅行したー毛布とフライパンだけ。多くの人が飢え、重病になった。生き残った者はUS-メ キシコ国境にたどり着き、リオ川に沿ってエル・パソに向かった。エル・パソから南カリフォルニアに向かい、そのうちレッドランドに定着した。
南カリフォルニアでの生活
 南カリフォルニアに来た日本人たちは、カナダ、メキシコ経由、あるいはアメリカに直接やってきた。全員が見知らぬ土地で厳しい生活に耐えなくてはならなかった。 もともと1900年から06年の間に和田村から南カリフォルニアに来たパイオニアは27人で、全員男性だった。彼らは故郷を離れ、財産を築くためにアメリカにやっ てきた。そしてほとんどが一時的な滞在のつもりで来ていた。一時的だったから、ひどい苦難にも耐えられた。20人が既婚者で、妻や子を残してきていた。
強制収容所時代を記憶するモミュメント
サンノゼにて
 最初の和田町コミュニティは、サン・ベルナルディーノ市近くの、オレンジ畑がたくさんある片田舎、レッドランドにできた。カナダ、メキシコ経由、あるいは直接ア メリカにやってきたので、彼らは同時には到着しなかった。新屋のカワシリ・ユキジュは初めてレッドランド地域に着いた鳥取県民の1人であり、オレンジ収穫の仕事に ついた。よりたくさんの県民が到着し、カワシリを通じて仕事を見つけた。和田から着いた人の多くは1人で、妻や家族をつれていなかったので、自然と同郷の人と一緒 にいるようになった。和田の人々はひとつの家を借り、「和田カンパニー」として知られるようになった。その家は集会所として、また外国で友人を見つける場所として 機能した。
 和田移民のほとんどは最初はオレンジ収穫の仕事をしたが、季節仕事なので、オフシーズンを乗り切るための仕事を探さなくてはならなかった。夏にはフレズノまで行 って葡萄を摘み、秋にはシュガービーツ収穫にオックスナードへ行き、冬から春にかけてレッドランドに戻りオレンジを摘んだ。生活は容易でも安定してものでもなかっ た。
 仕事の合間に、彼らはお金を持って40~50マイル離れたLAに行き、日本町やチャイナタウンで緊張をほぐした。彼らは飲食やギャンブルにお金を使ったが、お金を 使うときはそれを増やして少しでも多く日本に送るためだったが、たいていの場合、汗水流して稼いだお金を使い果たして帰ることになった。
 言うまでもなく、季節に応じて移動し続ける生活は、身体的ストレスのほかに精神的ストレスも大きかった。多くの労働者は安定した生活を望んだ。1908年、LAに 安定した生活だけでなく給料もいい仕事があるといううわさが広まった。彼らは10番地区(山の手地区として知られる)の貸家に移り住み、新しい仕事に就いた。清掃 用具を自転車に積んで家々に行き、家の掃除などをした。給料は当時としても低く、時給25セントだった。
 しばらくしてガーデニング仕事のほうがお金になると気づいた。それは資本が必要な仕事で、需要が増えていた。新しい住人はほとんど経験がなかったので、その仕事 は経験者のところへ行った。
 そのひとりヤスダ・ジンジロウ(葭津)はガーデニングをしていて、和田グループの人から必要な器具や仕事の種類などについてアドバイスを求められた。多くの人が 彼の弟子として働き、経験を得、アップタウンの住人達はガーデニングのプロになっていった。
 最初の27人の和田移民のうち、20人が結婚しており、二組を除いてすべての夫婦に子供がいた。日本を出るときは3年間だけの滞在のつもりだったが、思っていた ほど財産がたまらず、長い滞在を余儀なくされた。スミ・イノキチは1909年に最初に妻を呼び寄せた人のひとりである。まもなく、多くの和田移民が家族の絆を失う よりも妻を呼び寄せることを選んだ。
宗教
 多くの文化と同じように、宗教は日本人の生活のなかで役目を果たしていた。しかし東洋の仏教や神道は、西洋の宗教とはちがう広い世界観を与えていた。仏教的な背 景はまず出生、結婚、葬式の儀式的側面に関連した、このように一世たちは宗教に対してシンプルなアプローチを持っていた。西洋の教会で「礼拝」はしなかったが、時 々セレモニーを行えるようにある特定の宗派の寺を欲しがった。和田移民が1909年ころ10番地区に定住したとき、彼らは主に禅宗の宗徒だった。
 しかし、ある者は好奇心から、ある者は必要性から、近所の便利な場所にあった聖メアリー教会に参加するものも出てきた。カワタ・タカヨシ(和田町)は改宗して洗 礼を受けた最初の人のひとりである。ヤマザキ・マサオは聖メアリーの新しい牧師のひとりであり、日系コミュニティに影響を与えるのに重要な役割を果たした。彼は人 々に新しい宗教、新しい言語(英語)を教え、彼らがアメリカ社会になじむのを助けた。ヤマザキ牧師を通じて、教会は日系人に宗教のみならずアメリカ風の新しい習慣 などを教えるのに大きな役割を果たした。
 1900年代初頭、LAに本派本願寺の仏教寺があった。それが仏教の道を開き、すぐに禅宗のイソベ・ホウセン牧師が教えを広めた。1926年には最初の和田移民か らの寄付を元手に最初の禅宗寺が建てられた。
 禅宗寺が以前より定期的に礼拝を開くようになったのと同じように、キリスト教の影響hが仏教に影響を与えた。仏教徒達は、キリスト教徒を真似て毎週の礼拝に参加す るようになり、それによって仏教の知識を深めていった。
 重要なことは、和田コミュニティの人々は宗教においては異なる考えを持っていたが、それが彼らの関係に影響はしなかった。
 いまや和田の人々は自分達が本当に「コミュニティ」になったと感じ、団体として認識して1918年2月3日、独自の組織を作った。故郷を共通の要素とし、外国に おいて(すぐに「故郷」と呼ばなければならなくなるのだが)互いの絆を深めた。交流を維持するために定期的にミーティングを開き、彼らやその家族のために活動を計 画した。彼らはそれを「和田町会」あるいは「和田町クラブ」と呼んだ。
呼び寄せ一世
 一世定住者達は、予想していたほど早く日本には帰れないと知るようになり、妻や子供を呼び寄せた。しかし、すべての子供が来たわけではない。何人かは日本の教育 を受けるために祖父母や親戚の下に残された。これらの子供達は、両親から長期間遠く離れて、しばしば不幸で孤独な人生を送った。
 そういった子供の何人かは、青年になったときに両親に呼ばれ、特に働くために、アメリカに来た。彼らは家族の仕事があったために、アメリカ合衆国で学校に入るこ ともできなかった、さらに、アメリカに来て初めて兄弟姉妹に会ったが、しばしば兄弟間でコミュニケーションの問題や文化の違いに悩むことになった。
 日本から来た若者達は責任感でしばられていた。彼らは同化するチャンスがなかった。もし小さいころに母と一緒にアメリカに来ていたら、おそらくもっと機会があっ ただろう。彼らはとても制約を受けていて、不満がたまって不幸な青年達だった。その不満を発散する機会もなかなかなかった。彼らは彼ら自身のグループを作って音楽 やスポーツを楽しむことで緊張をほぐすことにした。野球の仕方を知っている者が知らない者に教えた。1922年春に野球チームが結成され「ダイアモンド」と名乗っ た。LA高校で練習した。1923年、他の野球チームが結成された。他の日本のチームよりも上手で、参加したい人のリストがすぐに増えた。このチームはとても強く、 日系コミュニティで名声を得たが、多くの弓ヶ浜の若者達は結婚や家族の手伝いなどのためにチームを辞めなくてはならなかった。
 1924年、ダイヤモンドは一番強いチームとして知られるようになり、1926年には名前を「LAニッポン」と変えた。このような野球チームの結成は若者にはけ口 を与え、日々の不満を発散となったが、同時に楽しみでもあり、何より重要なことには、自尊心を与えるものともなった。
--------『和田移民の歴史』



第3章 二つの祖国

1) 強まる排日運動、日米開戦

日本人への出頭を命じる布告
いまも張り出されていた。
サンノゼにて

 明治40年(1907年)にはすでに在米日本人は約9万人にも昇り、重労働と貧しい生活をものともせぬその勤勉な働きで次々と農場を取得し、日米開戦前にはカル フォルニア州の野菜生産高の7,8割を日系人がおさえるまでになったという状況は、カナダ、アメリカ現地住民の脅威ともなって、排日的な気運を醸成していた。
 明治39年(1906年)のサンフランシスコ大地震は、新たな排日運動の引き金となり、翌40年には移民法が改正され、ハワイ、カナダ、メキシコに在住する日本 人のアメリカ渡航が禁止され、さらに翌41年には日米紳士協約が結ばれ、日本政府は在米日本人の再渡航と近親者の入国以外、日本人労働者のアメリカ移住を認めなか った。

「昭和15年ごろまでは、境港市内からの移住は10人以内で、その後移住する者はなくなった」
 --------『境港市史』

帰国する家族

 一世の大多数は冨を得て故郷に帰ることを夢見ながら、決して実現はしなかった。少しの家族が日本で快適に過ごせるお金をためて国に帰っていった。しかしまったく 異なる理由で帰国した者もいた。

 勤勉な一世たちは、「短期間」だからたいへんな苦労を耐えることができた。しかし短期間すら耐えるスタミナを持たず、幻滅して帰国しなくてはならない人もいた。 さらに反日立法や人種差別、日々直面する嫌がらせのために帰国する人もいた。多くは差し迫ってきた日米開戦が理由で帰国した。子供のために帰国しなければと感じた のだ。
 ある家族が様々な理由から帰国を決意したとき、和田コミュニティの人々は集まって、その帰国を助けるために雑用などを助けた。帰国の決意は去る家族、残る家族の 間に複雑な感情をもたらした。和田グループはとても近い友達になっていたから、その家族がいなくなってしまうということ。帰国する家族にとっては帰国後日本に順応 できるのだろうかという不安。いくつかの家族は子供がアメリカにいたいと決意したために、その中間で惑った。
 --------『和田移民の歴史』

 昭和6年(1931年)の満州事変、昭和12年(1937年)の日支事変と、日本軍による中国への侵略拡大は反日感情をさらに拡大し、昭和16年12月の真珠湾 攻撃、日米開戦はそれを決定的なものにした。
 “敵性外国人“となった日本人は銀行預金を封鎖され、日本語新聞、日本語放送、日本語学校は閉鎖され、短波ラジオ、銃器、カメラなどの所有を禁止され、5マイル 以遠の外出を禁じられた。昭和17年2月、『大統領令第9066号』は、軍事区域に指定したアメリカ西部3州の日本人の強制的立ち退きを命令。人里離れた砂漠や平 原に急造された10ケ所の収容所に収容された。その人数は12万人に昇った。
 持ち物は「両手に持てるものだけ」とされ、日系人は一世から二世へと営々と築き上げてきたすべての基盤を失うことになった。

 『あゆみ』は、この時期の様子を次のように書いています。

 2月25日ターミナル島居住日系人の48時間立ち退き命令が出された。(中略)この人たちは家財の整理と退去先を、短時間のうちに決めねばならず惨めであった。 普通なら50~200ドルもする家具を、4~5ドルで買い叩かれた。

ここに住んでいた弓浜出身者は次のようである。

富益木村元徳、松下長寿
上道堀田益次郎、堀田大二、門永彦一
--------安達幸一『あゆみ』 

 また一般日系人の強制立ち退き以前に行われた3州の元日本軍人、日本人会役員や宗教関係者の検挙、抑留所送りについて、弓浜出身者の名前を、『あゆみ』は次のよ うに記しています。

富益河田茂長、松下長寿
和田井田 斉、安達正誠
大崎角 恕通
小篠津松本 一
上道堀田大二、本池房一、堀田益次郎
景山熊市
--------安達幸一『あゆみ』 

2) 収容所生活

 「忠誠登録」・・・日米開戦という事態を迎えてアメリカ政府は、日系人に対してアメリカ国家に忠誠の誓いを求めた。アメリカに生きる日系人としてアメリカ国家に 忠誠を誓い、家族、親族のいる日本と戦うのか、祖国・日本の勝利を願ってもうひとつの祖国・アメリカへの忠誠を拒否するのか・・・弓浜地方で一生を過ごせば苦しむ こともなかったはずの苦難が日系人たちを襲うことになった。
 初期の移住から半世紀近くたち、日系人社会はすでに一世と二世が苦楽をともにする時代となっていた。

収容所の暮らしを再現してある
―― サンノゼ資料館

 一世はアメリカ市民としてどんなに誠実に義務を果たしてきていてもアメリカ国籍は認められず、現地で生まれた二世はアメリカ国籍を認められたがゆえに兵役の義務  日本人であることに自分のアイデンティティを求める者、名実ともにアメリカ人になろうとする者、その狭間で揺れる者。「ノー」と答えた者たちは、「ノー・ノー・ ボーイ」と称され、反抗分子とみられ彼らだけが集められて収容されることになった。「イエス」と答えた若者たちは日系人部隊に編成され戦地へ追いやられた。

3) 戦後ふたたび

 前出『和田移民の歴史』から関係部分を紹介しておく。

第2次世界大戦と戦後
 太平洋沿岸の日系人は開戦時にキャンプに引っ越さなくてはならないという大変不幸な体験をした。勤勉に働いていくらかの物を得てきた多くの一世は、また一文無し になった。所有物のほかに時間も失うことになった。
 戦後、生活を立て直さなくてはならなかったとき、多くの和田移民はLAに戻り、新たしく住む場所を探し、必要最低限のために働き始めた。たくさんの人が他のメンバ ーとの連絡が途絶えてしまった。彼らは以前ほど一箇所で親密でなかった。多くがLAの郊外に移り住んだが、できる限りグループの人と一緒にいたいと望んでいた。 1949年2月、数人の和田移民が集まり、ふたたびクラブを結成した。彼らの最初の活動は全員が集まれるパーティーを開催することだった。そしてまもなく、7月4 日(独立記念日)のピクニックなど他のイベントを企画しはじめ、それが後の数多くのイベントにつながった。
 ほかに続けられた「伝統」には「たのもし」があった。信用でお金を集めておく慣習である。それでお金を必要とするメンバーを助けると共に、定期的に他のメンバー に会うきっかけにもなった。
 1954年に米子市周辺の村は合併して、和田村は和田町になった。LAのクラブも名前を変えた。1956年に開かれた毎年恒例の7月4日のピクニックは特別だった。 和田の最初のパイオニア達が、彼らの「苦闘」に対して賞を与えられた。その8名は:ヤクラ・ウメゾウ、ヨシダ・ダイサク、ヤマナカ・シゲタカ、ヨネムラ・シゲハル、 イダ・クミ、ヨネザワ・カメヨ、ゴトウ・アキ。
 1960年、毎年の和田ピクニックは、鳥取県全体の活動に吸収され、中止となり、現在に至る。
グループの親密さ
 和田からアメリカに来た人々は独特な性質を持った特別なものだった。アメリカに住む多くの日本人は、様々な県の人とつながりを持ったが、和田の人々はそのグルー プに特別な親近感を持っていた。彼らの親近感は、彼らがつらい時期を乗り越えるのを助け、同時に幸運をも分け合った。たとえば、メンバーが経済的に苦しいときには 全員が集まってその人を助けた。それは主に、相互経済扶助の一形態である「たのもし」によって行われた。
  (たのもしの説明省略)
   その他の親密さの例としては、友人の葬儀のときに集まって助けるやり方である。その背景にある考えは、遺族にできるだけ負担をかけないようにとのものだった。多 くの場合、2人がそれぞれ別の家庭に行って、その友人の死を知らせる。その死の夜かすぐ後には、和田移民の全員がその家に行って、雑用をしたり葬儀の手配を手伝っ ったりした。葬儀の後にも、彼らは葬儀費用と香典を計算して、もし不足が出た場合には、友人らで出し合って不足をカバーした。彼らは、自分の時にも他の人が同様に してくれるだろうと知っていた。
 この近親感は日本の先祖から受け継いだ。「氏」は人々にとって非常に重要なもので、お互いに助け合う親族であった。和田から 多くの「氏」が来ていたが、LAに来た とき、全員が同じ「氏」ではなかった。しかしその土地があまりにも見知らぬ土地だったので、同じ「氏」のメンバーに対して持つ感情が、同じ村から来たメンバーに対 する感情へと変化したのである。
  --------『和田移民の歴史』

4) 市民権回復の運動

サンノゼ資料館の展示写真

 サンノゼの資料館には、日本人収容のよりどころとなった「排日移民法」の廃止と市民権の回復を求めてたたかった日系アメリカ人たちの運動の歴史も展示されていた。 運動は1989年、レーガン大統領による排日移民法の廃止として実を結び、翌年にはパパ・ブッシュ大統領が公式に『謝罪声明』をおこなった。



余分な話ですが・・・TVドラマ 『99年の愛』

 2010年10月のサンフランシスコから帰ったその夜、橋田寿賀子の5夜連続ドラマ『99年の愛』が始まっていて驚いた。
帰国の前日11月3日、バークレイの『姿レストラン』で、県人会のみなさんと会食。そこで私が「北海道への開拓移住については、吉永小百合が主演した『北の零年』 という映画があったし、ブラジル移民については、橋田寿賀子の『ハルとナツ』というTVドラマがあった。明治から始まったこの北米移住にも、掘り起こせばすごい、数 々のドラマがあると思う。映画やテレビにならんかな~」などと話したら、「そりゃいい!」なんて盛り上がったのでした。
 その翌日から日本で『99年の愛』が始まっていたのですから、驚いても無理ないでしょう。
 ドラマは、島根県奥出雲地方からアメリカに向かった移住者が主人公。差別と貧困、戦争、逆境と闘い続け、日本とアメリカ、二つの祖国の相剋のなかに生き抜いた家 族を描いています。向こうで二世の方から聞いてきた収容所生活のことなど、聞いた通りのことが描かれていました。北米移住を知るのにこのドラマは必見です。 GyaoなどのDVD有料(安い)配信で鑑賞することができます。



第4章 光と影

 第2章で書いたように、異国の地でゼロからの出発となった移住者たちの暮らしは困難を極めた。しかし、日本人持ち前の忍耐力と勤勉性で、カナダ、アメリカ社会に しっかりとした地歩を築いたファミリーも少なくない。


「花の竹安」


 南カルフォルニアの小都市、ロサンジェルスで、鳥取県人は、菊やバラなど花卉栽培の草分け的存在となった。その1人に境港市中野町出身の竹安繁松がいる。
 以下は、日本海新聞『さかい人物風土記』 からの引用。

 竹安は、大正8年、20歳のときに叔父の呼び寄せで渡米。数年間、叔父の漁業の手助けをしたのち、ロサンジェルスの夜学校に通いながら庭園業に従事。食料品店の 開業や義兄の花園業手伝いを経て昭和3年、サンファナンド平原に耕地を借りて独立。花卉栽培50年のスタートを切った。薄い花弁が美しいラナンキュラス栽培で全米に 知られ、「15英加」、すなわち60平方キロ、境港市面積のおよそ3倍の栽培面積を誇る。花卉栽培はいま長男・成夫(56)夫婦にまかせている。

 竹安はその後、南加花市場の育成にも貢献し、南加日系人商業会議所の会頭も務めた。サンファナンド平原日本語学園の初代理事長にもなり、日系人教育に尽力してい る。


「観光の松本」


 境港市小篠津町出身の松本一は、大正12年に渡米。

 初め、実兄とともに花園業に従事したが、昭和10年独立。16年、日米開戦と同時に収容所に抑留され、21年、サンファナンドに帰還して花園業を再開。以来、20エーカ ー(約80平方キロ)の花園経営。南カルフォルニア有数のカーネーション栽培業者となった。

 松本は戦後数回にわたって観光団を引きいて来日するなど、ロサンジェルス市の日本庭園に錦鯉500匹(5千ドル相当)を寄付したり、昭和27年の鳥取大火にも救援寄金 の募集に走り回るなど無類の世話好きで、また「観光の松本」とも称された。

 移住で財を成し故郷に錦を飾った人も少なくないが、誰もが成功したわけではない。ある移住者の帰国子女は、私に次のように話す。

 爺さんは、帰国して立派な屋敷をたてた。誰もがアメリカで成功して帰ってきたのだと思った。しかし内実は違う。たのもしで借金をして帰国したのだった。そうする しかなかった。

佐々木タツジュの物語


 サクラメント在住・日系三世の佐々木・アイリーン・春子は、曾祖父から始まる佐々木家の移住について調べています。いただいたメールから、その一部を要約し紹介 します。

富益300年誌
 佐々木・アイリーン・春子の曾祖父、佐々木タツジュ(アイリーンはタツジュと書くが、『富益300年誌』には辰十とある)は、佐々木家本家の8代目でした。母は 彼が11歳のときに、父は彼が23歳のときに亡くなり、彼は祖母のシモに育てられました。
彼はあまり労働が好きではなく、楽に儲かる話があればすぐ手をだしては失敗、いつからか「夢見るタツジュ」とあだ名されていました。
 彼の妻、佐々木(旧姓木村)フデノ(『富益300年誌』にはふでのとある)が畑を耕し、家族を養っていましたが、彼は、手を出した食料品店の失敗で畑を失う危機 にあったのです。フデノの弟、キムラ・ジンウエモン(安達幸一『あゆみ』によれば、木村甚右エ門)と和田町からの他の2人のパイオニアがアメリカに行ったのはその ころでした(1904年ころ)。彼らはいい仕事があり、支払いもよいと手紙を書いてきたのです。タツジュは「道でゴールドを拾うことだってできる」と、友人と一緒 にアメリカに向かいました。
 1906年9月29日にシアトルに着きました。31歳でした。到着後、彼は雑用などの仕事をして、富益の畑にいる妻にお金を送りました。外貨レートはすばらしく、 およそ4年間の間に、彼は特にスキルもない外国人労働者として働いたお金で借金を返し終わったのです。すべてが希望に満ちてみえました。1912年2月27日ごろ、 富益に手紙が届くまでは。

 その手紙になにが書いてあり、その後タツジュがどうなったのか・・・は、佐々木・アイリーン・春子がまとめるとのことですので、この先はお楽しみということにし ておきます。


マツモトゼンイツの話


米子市夜見新田で電気工事業を営む松本省吾さんは、曽祖父にあたる松本善逸の生涯を追いかけているが、まだ途上だ。
松本善逸は、明治32年、生まれたばかりのわが子の顔をみてから渡米。モンタナ州リビングストンで鉄道工夫の職を得たらしい。しかし28歳ぐらいのとき、腸チフスに冒され病死。異国の土となった。一緒に働いていた日本人が埋葬してくれ、葬儀と墓石を写した写真を生家に送ってきてくれたのだという。
同州のミズーラというところに鉄道病院記念館がつくられていて、そこに工事中に亡くなった人々の記録があると知り、松本省吾さんは、その訪問を楽しみにしている。


海外移民の記念碑


 移住者たちの望郷の念は、故郷の学校や神社などに数々の寄進をおこなっています。ここでは、米子市編纂『よなごの宝88』から、移住 者が寄進した鳥居や灯篭の紹 介をしておきます。(解説文は同書から要約)。

葭津神社の鳥居

大崎神社の大灯篭
米子市大崎

明治40年(1907年)10月建立。基壇部に「大崎渡米者/寄進人名/席次抽選」とあり、大崎42名、大篠津村2名、大崎軍人2名の名前が刻んであります。高さ 4.8m。地震で壊れていますが、大きな壮麗な造りで意気込みが伝わってきます。
葭津神社の鳥居
米子市葭津

明治44年(1911年)11月建立。左右の脚部に「奉」・「献」とあり、「米州移民」の文字に続いて13名の名前が刻んであります。
粟島神社の春日灯篭
米子市彦名

昭和15年(1940年)皇紀2600年を記念して忠魂碑前に一対を寄進。竿部に「渡米者」の文字に続いて29名の名前が刻んであります。高さ約3.5m。

 『和田移民の歴史』は、先覚者たちの歴史を振り返って、最後に『結論』として、以下のように記している。

 この説明は多くの人の生活に関する短い歴史である。この鳥取県の人々の物語は、数世紀前に日本海側の半島で始まった。当初から鳥取の人々は、日本の新しい土地に 移っていく「パイオニア精神」を持っており、ついにはアメリカ合衆国に定住した。
 多くのパイオニア達は何マイルも山を歩き、港に着き、そこから永遠にも思える航海に出た。
和田の一世たちは特に若い頃から大変な生活をした。彼らはアメリカでも日本でも不安定さと苦難に直面した。しかし彼らは生き延びた。彼らの障害を乗り越えたサクセ スストーリーは、日本人の振る舞い、考え方のおかげでもある。彼らは勤勉で知的で、持てるわずかなものを最大に利用することができた。そして、彼らは子供、家族、 友人達の生活が少しでも楽になるよう、自分たちの持てる少しのものを犠牲にすることを厭わなかった。
 一世たちはその生涯で実に多くのことをなした。歴史、遺産、彼らの生活に多くの貢献をし、もしその強さとその文化の一部でも失われたら、それは大きな悲劇である。 彼らの子供、家族、子孫達は、彼らが残したものに感謝し、彼らの夢―日本とアメリカの文化の最良の融合―を実現させるべきである。


第5章 北米鳥取県人会のいま

1) 100万人を超す日系人社会


 財団法人「海外日系人協会」によれば、カナダ・アメリカの日系人社会は推計100万人を超す。

協会HPより転載/クリックで拡大

 カナダについては、中海カナダ協会が詳しいと思うが、トロント支部は2010年1月に、会員消 息を載せた冊子を出版している。
 人づてに私の関心を知った在カナダのエミコという人から次のようなメールが娘に寄せられた。

 バンクーバーにひとつあるはず。そしてAlberta(?)にもうひとつ。そしてトロントにある南オンタリオ県人会。モントリオールにも数人鳥取県人がいて、どうやら私 (エミコ)の遠い親戚らしいのだけど、県人会はないみたい。聞いてみないといけません。
 もちろんこの国のあちこちに他の人たちが点在してると思われます。
 もともと移民には2グループありました。上道周辺からきた人たちと和田周辺から来た人たち。上道グループの人たちはAlbertaの近くのどこかでカナダ移民100周年 のイベントをやったみたい。

 この「上道グループの人たちはAlbertaの近くのどこかでカナダ移民100周年のイベント」というのが、境港市が送った交流団とのイベントかな。確認が必要です。
 鳥取県によれば、北米における鳥取県人会は次のようになっている。(2010年9月現在)

南加鳥取クラブ (ロスアンゼルス・渡邉繁雄会長・約130家族)
サンフランシスコ鳥取県人会 (エルセリト・篠田義美会長・約50世帯)
ニューヨーク鳥取県人会 (ニューヨーク・近藤志郎会長・25人)

 そして、南加鳥取クラブへ25万円、サンフランシスコ鳥取県人会へ15万円の補助金が毎年交付されている。
 ただし、サンフランシスコ鳥取県人会は現在、桑港鳥取県人会と名前を変えて、会長は、Curt Miki Kawabata(境港出身者の三世)が務めている。


2) 在カナダ・北米県人会との交流事業の記録


 鳥取県-------(未完)
 米子市-------(未完)
 境港市
--- 昭和60年 第一次カナダ訪問団
--- 平成3年(1991年)第二次カナダ訪問団
--- 平成4年(1992年)カナダ移住100周年記念カナダ訪問団



第6章 研究者たち

門永文吾


 この弓ヶ浜の海外移住史研究の第一人者といえば、門永文吾があがる。その功績について、昭和60年1月24日付日本海新聞“さかい人物風土 記”より、引用紹介します。

 市史執筆者の一人、上道町の門永文吾=かどなが・ぶんご(63)は、境港ことに上道町に多い“海外移住史”という他にみられない特異な分野を担当する。
 門永自身もカナダ・バンクーバー生まれ。門永自身の調査によると明治39年(1906年)、門永の祖父・長太郎がまずカナダに渡り、父・力も大正3年に渡航。7 年後に門永自身が生まれた勘定だ。門永の弟、妹もそれぞれ現在、カナダとアメリカに住む。門永の海外移住研究は自らのルーツを追うものであったのだろう。
 「カナダの広さは、子供心にも覚えていますよ。近所にゴルフ場があって、その近くにリンゴの大木があって、54年と56年の2回、2カ月ずつカナダを訪れました が、戦前の姿がそのまま残っていました。弟や妹の顔も初めてみました」
 門永は、いまからおよそ60年前の昭和元年、教育だけは日本で受けさせたいとする当時の海外移住者の“習わし”に従って帰国。上道町の祖父母のもとで聖心幼稚園 に入園し、上道尋常高等小学校から旧制・米子中学、鳥取県師範学校に学んだ。
(中略)
 門永は結局、尋常高等小学校を終えてカナダに帰る人たちの多い中、さらに上級教育を目指して旧制中学に進み、戦時色の深まりとともにカナダの家族との音信が途絶 え、戦後の文通再開まで家族の安否を知らずに過ごした。
 16年の師範学校卒業以来、門永は西伯郡和田小(現米子市)をふり出しに、上道、境両小学教諭-境港市教育指導主事、県教委同、日吉津、渡、余子各小学校長(市 立はなぞの幼稚園長兼務)を経て54年退職。
 退職後の北アメリカ旅行で、幼児の思い出を新たにし、さらに弟、妹にも会い、57年『CANADA渡航記』を自費出版。境港の海外移住に改めて歴史的な光をあてた。 貴重な著作となっている。

佐賀省三

-------(未完)




【参考資料】


『境港市史下巻』境港市史編纂室・昭和61年刊
『境港市史・資料編』境港市史編纂室・平成元年刊
『新修境港市史』境港市史編纂室・平成9年刊・畠中弘氏提供
『境港45周年史』境港市史編纂室・平成13年刊・畠中弘氏提供
『鳥取県史』鳥取県
『鳥取県中南米移住史』鳥取県同史編集委員会・2008年刊
『米子市史』米子市
『上道村雑記』佐賀省三著・昭和54年6月刊・市史編纂室所蔵
『富益300年誌』同編集委員会
『新修大篠津郷土史』
『和田郷土史――発祥300年記念』和田郷土を語る会
『米子市民が選んだ88』米子市教育委員会
『さかい人物風土記』日本海新聞掲載・昭和60年
『あゆみ』安達幸一著・LA在住・1978年刊・鳥取県立図書館所蔵
『KANADA渡航記』門永文吾・昭和57年刊
『もうひとつの日米関係史』飯野正子著・有斐閣発行・SF図書館所蔵
『解体していく日本人・帰米二世』山城正雄著・五月書房発行・SF図書館所蔵
『移民』中国新聞「移民」取材班・1992年発行・夜見町 松本省吾氏所蔵
『ISSEI The Shadow generation』by Tsukasa Matsueda,Ed.D




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